2018/12/28 | 鰹節
伝説の鰹節は、屋久島にあった!その真実と丸眞のルーツとは?
こんにちは。丸眞の代表の眞邉です。
戦前、東京界隈のそば店でとびきりよい出汁が取れると話題になった節があるのを知っていますか?
それは「梅吉鯖」のサバ節。名うての漁師「梅吉」が屋久島で釣り上げた鯖「梅吉鯖」でつくった節。魚質がよく、ふつうの鯖よりもサイズが大きく、カツオと見間違えるくらいの大きさだったといいます。
そして、もう一つの伝説の鰹節「屋久島節」。
江戸時代、全国に鰹節ブームが広がって行った中で発表された「鰹節番付」。当時は横綱の地位が無かったため、横綱不在の中、西の大関として事実上のナンバーワンを勝ち取ったのが屋久島産の鰹節「屋久島節」。
どちらの伝説の節も、東京から南へ1500km先にある屋久島でつくられていました。
今日「屋久島」というと、世界遺産やら観光のイメージでなかなか鰹節や鯖節と繋がらない、という方も多いかもしれません。
でも、屋久島はもともと、質のよい魚が豊富に獲れるとてもいい漁場だったのです。
屋久島と2つの伝説の節、そしてそれらと丸眞のルーツはどう関係があるのか、今回はそのあたりをお話ししたいと思います。
目次
1. 伝説の「鰹節」と「鯖節」 1-1. 西の大関と評された鰹節「屋久島節」 1-2. 江戸の蕎麦屋がうなった「梅吉鯖節」
2. 屋久島と、丸眞のルーツとは? 2-1. 初代・太郎兵衛の時代 —鰹節屋を創業— 2-2. 5代目・葛蔵の時代 —ヤクサバ節に切り替え— 2-3. 6代目(先代)・勝也の時代 —東京進出— 2-4. 7代目(現当主)・光英の時代 —「THE UMAMI COMPANY」を掲げる—
3. UMAMIのバトンを引き継ぐ 3-1. これからの丸眞と未来への思い 3-2. 母の味「味噌汁」 3-3. まとめ
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1. 伝説の「鰹節」と「サバ節」
鹿児島県の最南端・佐多岬より南方約60km海上に浮かぶ、面積500㎢のほぼ円形の島「屋久島」。
屋久島はユネスコの世界自然遺産に登録され、苔むした屋久杉の森や野生動物の島のイメージが浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
原生自然環境保全地域に指定されたり、スギの原生林が天然記念物に指定されたり、屋久島は島の90%が森林に覆われる自然豊かな島です。
かつて屋久島を訪れた植物・動物学者たちは「類を見ない島」「人類の至宝」と表現したそう。
さらに1993年のユネスコ登録当時、ユネスコ世界遺産センターのドロステ所長は「自然遺産としての屋久島の価値は、多くの人たちが暮らしていながら、すぐれた自然が残されていることにある」と評価したといいます。
ドロステ所長が言い表した通り、まさに屋久島は神秘的なほどの美しい自然風景を残しなつつ、その恵みを受けながら人々が共生する島。辺り一面を海に囲まれ、黒潮の本流が流れる良環境ゆえ、古くから漁業も盛んです。
その屋久島において、かつて伝説と言われていた2つの「節」は誕生しました。
西の大関と言われた鰹節「屋久島節」と、戦前東京界隈のそば店で騒がれていたという「梅吉鯖節」。
双方ともにとても良質で、深い旨味があったと伝えられています。
いまではほとんど口にすることはできない、幻のこれらの節について少し追っていきたいと思います。
1-1 西の大関と評された鰹節「屋久島節」
「鰹節考」(筑摩叢書)山本高一著より
屋久島では江戸時代、藩政の頃から鰹漁が行われていました。
というのも、太平洋中央水域、モルジブあたりから流れてくる黒潮の本流が、ちょうど屋久島のところでぶつかって、とてもいい漁場となっていたのです。
冷凍船が登場した現代においては、太平洋中央水域で大量に獲って日本に運んでくるのが主流ですが、ひと昔前は近海で釣り上げた鰹で鰹節にしていたのです。
ですから、かつていい漁猟があることはいい鰹節づくりの第一条件でもありました。
私の親世代の話ですが、枕崎で活躍する鰹節づくりの名人はよく「七島もの(ひっとうもの)」がいいと言っていました。
トカラ列島のことを鹿児島なまりで「七島(ひっとう)」といい、その付近(屋久島はトカラ列島のすぐ横にあります)で獲れる鰹が近海ものでは抜群によかったとのことです。鮮度がよく、鰹節にするのにちょうどいい脂のノリだったのです。
また、屋久島は獲るのに最適だっただけでなく、鰹節づくりの観点でもすばらしい環境にありました。
屋久島を訪れた作家・林芙美子が「1ヶ月に35日雨が降る」と表現したくらい、屋久島は雨の多い地域です。亜熱帯地域を有していて、山が高くて湿度が高い。これは、カビつけをする上でとても最高な環境です。
その雨もずーっと降り続くような雨ではなく、スコールのように局所的にザーッと降って通り過ぎていく雨。雨が降っていないときは、南国特有の強い日差しが降り注ぎます。これもまた、鰹節を天日干しにする上でとてもいい環境です。
いい鰹が獲れて、いい鰹節もつくれるという、両方が最高。日本全国を見ても、この良環境が揃う場所はなかったと思います。
ただ残念ながら明治に入ると、鰹の漁獲量の減少に伴って、屋久島での近海釣り鰹節はできなくなってしまいました。
やはり一度冷凍していない、新鮮な近海釣りの鰹でつくった鰹節は美味しいのです。
今では口にすることができない西の大関「屋久島節」はどんなに美味だったのか、思いを馳せてしまいますね。
1-2. 江戸の蕎麦屋がうなった「梅吉鯖節」
左が梅吉鯖のヤクサバ節。右は通常のゴマサバ。
柴田書店「そば・うどん第7号」昭和55年発行より
戦前、東京界隈のそば店でとびきり美味しい出汁がとれると話題になった「梅吉鯖」の節。
これは、いわゆる屋久島産の上質なゴマサバでつくられた鯖節、「ヤクサバ節」のことだったと考えられています。
魚質がよく、ふつうの鯖よりもサイズが大きく、鯖なのにカツオと見間違えるくらいの大きさだったことから、東京では「梅吉鰹」と呼ばれていたといいます。
なぜ「梅吉」と名がつくのかと言えば、当時の腕利きの屋久島の漁師「梅吉」さんが釣り上げた鯖だから。屋久島近海には梅吉さんが見つけたいい「瀬」があって、通称「梅吉瀬」と言っていたそう。この瀬で獲れた鯖は「梅吉鯖」と呼ばれました。
実は、屋久島では昔から鯖が有名でした。地元では鯖が高級魚として扱われ、鯛などは見向きもしないで皆鯖を食べた、といわれるくらい。そのくらい鯖が美味しかったのです。
一般的に美味しい鯖としては、大分の「関サバ」などが有名ですが、屋久島でも美味しい鯖を刺身で食べていたのです。
首を折って血抜き等の鮮度維持の処理をした「首折れ鯖」というものが伝統としてあり、一本釣りで釣った鯖を首折れ鯖にして昔から刺身で食していました。
その刺身でいただけるくらい美味しい鯖を節にしたのが屋久島の鯖節。出汁のプロでもある江戸の蕎麦屋が伝説と呼んだくらいのとびっきりの美味しさだったというのは、うなずけます。
今はかつてのようになかなか獲れなくなっている屋久島の鯖ですが、一定の漁獲量はまだ確保されています。現在弊社丸眞でも、屋久島の鯖節をごく少量ではございますが、取り扱っているので、興味を持たれた方はまずは一度味わっていただきたいと思っています。
2. 屋久島と丸眞のルーツとは
西の大関といわれた鰹節「屋久島節」も、東京の蕎麦屋をうならせた「梅吉鯖節」も、代々これらを扱って来たのが私たちの先祖でした。
素晴らしい漁場と節づくりの良環境に恵まれた屋久島に生を受け、必然の流れとして鰹節屋を営むことになった初代太郎兵衛。太郎兵衞は文化5年、屋久島にて鰹節製造を始めます。ここが丸眞の歴史の始まりです。
先代にあたる6代目勝也まで、この屋久島の地で鰹節屋として商売を営んでいました。この美味しい屋久島の節を東京で広めようと、先代の代で上京。その後、現在の湘南に場所を移し、私7代目に引き継がれています。
2-1. 初代・太郎兵衛の時代 —鰹節屋を創業—
すぐれた漁場に囲まれた屋久島では、さまざまな家で保存食のため鰹節づくりが行われてきました。その中において、太郎兵衛は今から200年ほど前の文化5年に、鰹節屋を創業しました。
当時は屋久島全島で港があり、鰹水揚げの根拠地として栄えていたといいます。その中で一番重要な水揚げ港だった「一湊港」あたりの集落に太郎兵衛の家はありました。
以前、鰹節の歴史を書いたブログで、鰹節を進化させ全国に広めたキーマンとして3人の職人を紹介しました(まだ読まれていない方は、ぜひ一読していただけたらと思います。縄文時代から遡って、鰹節がどのようにつくられてきたのかがわかって面白いですよ)。
ちょっとおさらいすると…
甚太郎親子が劇的に美味しく改良した「改良土佐節」を、1700年頃に森弥兵衛が鹿児島・枕崎に伝え、1780年〜1800年頃に土佐与市が千葉や伊豆に伝えました。そして、全国に鰹節のブームが起こってきたと予想されます。
そして、丸眞の祖先の太郎兵衛が屋久島にて創業したのが1808年。
この全国にじわじわと広がっていた鰹節の波を敏感に感じ取って、「これからは鰹節の時代だ!」と鰹節屋を興したのではないかと思っています。大きな歴史の流れと、自分の家業のルーツがつながっているなと思うと、ゾクゾクッとしますね。
鰹節づくりには火事もつきもので屋久島の鰹節工場群もよく火災を起こしていたこともあり、このときのことについて文献や書物などはあまり残されていません。
ただ、かつては鰹も豊富に獲れ、先ほどお話した伝説の鰹節「屋久島節」も初代・太郎兵衛は製造していたのは間違いないと思います。
しかし、次第に鰹の漁獲量が減っていき、屋久島全島でも明治時代には鰹節から鯖節製造へと切り替わっていきました。
初代太郎兵衛から4代目くらいまでは伝説の西の大関「屋久島節」を製造しておりましたと聞いております。
残念ながら、私も私の父親もこの「屋久島節」を口にしたことはないのですが、格別の美味しさだったんでしょうね。決して叶うことはないですが、太郎兵衞のつくる伝説の「屋久島節」でとった出汁を一度飲んでみたいですね。
2-2. 5代目・葛蔵の時代 —ヤクサバ節に切り替え—
先々代・葛蔵
先ほどもお話ししたのですが、漁獲量の減少に伴い屋久島では鰹節が製造できなくなっていきます。
その現実に直面するのが5代目・葛蔵の時代。葛蔵は、私(7代目の現当主)の祖父にあたります。
鰹が獲れなくなってきたとき、葛蔵は屋久島近海でよく獲れた鯖節づくりに切り替えました。
地元の漁師たちは夜間照明を用いた一本釣りで鯖を釣り上げ、かつての一日の水揚げ量は6〜8t近く、漁師1人当たり300~400尾もあったと文献には残っています。
このよく獲れ、そして屋久島では鯛よりも高級とされたゴマサバ。いわゆる、東京で伝説といわれた節のもと「梅吉鯖」。この漁師の釣り上げた立派なゴマサバを葛蔵は焙乾して「鯖節(ヤクサバ節)」をつくり、売り先も九州から本州へ拡大させ商売は発展していきました。
そして戦前から評判が高かった東京へも、拠点を設けます。これが、6代目勝也の代での東京進出へとつながっていくのです。
2-3. 6代目(先代)・勝也の時代—東京進出—
先代・勝也と現当主・光英
上質なヤクサバ節をもっと東京で広めたいと、先代、つまり私の父になるのですが勝也が兄弟で上京します。
そして平成3年、東京でしばらく営んでいた兄弟の販売店から志をもって、現在の湘南の地で「丸眞株式会社」として会社を興し、新たなスタートを切りました。
屋久島で生まれ育ち、職人である自分の父・葛蔵の働きぶりを見て育った勝也は、生の魚の仕入れから、節への加工、そして削り工程まですべてを経験していました。
そして、東京の地で自らが奮闘して培っていった販売や営業の経験もあります。
父は、仕入れから加工、そして販売・営業までを一人でこなすスーパー職人だったのです。ヤクサバ節をつくるプロでもあるし、削り工程のプロでもあるし、お客さんと直接話してきてお客様の思いをわかるプロでもある。すべてにおいて精通している。
このすべてのプロフェショナルである鰹節屋は、私の知る限り誰もいません。たぶん、日本中を探しても誰もできないでしょう。
職人気質で「背中を見て覚えろ」というタイプの父・勝也。
直接教えてもらえることは少なかったですが、鰹節を愛しすべてのプロフェッショナルだった父を私は尊敬しています。
そして、すべての工程に精通していて、すべての関係者やお客様の思いをわかるプロである、ということは今に繋がる丸眞のDNAだと自負しています。
2-4. 7代目(現当主)・光英の時代
—「THE UMAMI COMPANY」を掲げる—
そして現在、私で7代目。
父を見て育ったので、至極当然な流れとして私は鰹節屋を継ぐことを決意していました。
父や母が持っていた鰹節への愛と誇り、この思いを引き継がなきゃという気持ちはずっと潜在的に持っていたのだと思います。
ただ、父は職人気質でしたので、口で丁寧に教えてもらうということはほぼありませんでした。「見てわかるだろ」といわんばかりに、まさに背中で覚えろというタイプ。私自身は知ることにすごく飢えていて、産地の方に会わせていただいたり、お客様ととにかく会って話をして、自分で見聞きして覚えていきました。
産地へ出向き産地の方の思いを聞く。そして蕎麦屋さんや日本料理店、イタリアン、フレンチとさまざまなお客様の味の設計に対する思いや希望を聞く。そして、その両方をつなぐというのが自分の役割だと思っています。
だから、ふつうの鰹節屋さんではやっていないようなリクエストに応えたり、自分から味の提案をしたり、自然と垣根を超えた活動をするようになりました。
その中で、よりお丸眞にしかできないことをしていきたいと思うようになりました。
かつて屋久島で伝説の鰹「屋久島節」をつくってきたように。
そして先代や先々代が最高級の「ヤクサバ節」を東京に届けたように。
私たちは、時代を変えても最高の”UMAMI”をみなさまにお届けしてきたと自負しています。
そして私は、「丸眞」を「THE UMAMI COMPANY」と再定義して掲げました。
日本が生んだ掛け合わせの知恵である”UMAMI”、いまでは世界的に注目される言葉となった”UMAMI”。この”UMAMI”の知恵を、私たち丸眞は、日本文化のエッセンスとしてとらえ「THE UMAMI COMPANY」として、『掛け合わせて、引き出し合う』ことを念頭に、お客様の価値創造をすることが使命だと考えています。
3. UMAMIのバトンを引き継ぐ
文化5年から約210年、丸眞はその時代に合わせて鰹節屋をつないできました。
そこに変わらずあった思いは最高の“UMAMI”をみなさまにお届けすること。
代々繋いだ技術や知恵は守りながら、最高の“UMAMI”をお届けするということを軸に常に新しいことにもチャレンジしていきます。
初代が時代の波を読み鰹節業を始めたことも、先々代がヤクサバ節に切り替えたことも、先代が東京に進出したことも、新しいことへのチャレンジでした。
守るべきものを守りながら、新しいことを切り開く。これは丸眞独自のDNAでもあると思います。
私も“UMAMI”のバトンを引き継ぎ、伝統を守ることも新しいことへのチャレンジも両方を大切にしていきたいと思っています。
3-1 これからの丸眞と未来への想い
私は“UMAMI”というものを繋いでいきたいと思っています。
少し大げさですが、地球誕生からいうと、人類が誕生して日本という国が生まれ、同時に日本の食文化も発展して、黒潮の流れとともに鰹がやってきて、さまざまな人智や自然の力を受けて生まれるべくして「鰹節」というものが出てきました。
日本の食文化のみならず、世界の食文化を支えるといっても過言ではない鰹節の“UMAMI”。
日本で“UMAMI”が発展したのは、必然だと思うんですよね。
というのも、日本人は動物性タンパク質(アミノ酸)をあまり摂ってこなかったから、“UMAMI”に対してすごく敏感だと思っています。からだがアミノ酸を取り入れろという信号があったからこそ、“UMAMI”に敏感な民族になったんだと。
ビタミンが足りないという信号を発して食べる野菜がおいしく感じられたりとか、水分を欲する信号を発して喉が乾いて飲んだ水がおいしく感じられたりとか、それと同じだと思うんですよね。
だからこそ、日本人が“UMAMI”を発見したと思うのです。
日本人が“UMAMI” を発見したのが必然だったように、私も必然として鰹節屋というバトンを引き継いだと思っています。
その資産にすがってその資産を食いつぶすのではなく、自分の代では引き継いだバトンをしっかりと今の世の中に合わせて半歩でも1歩でも進化させ、自分なりに成長させたいと思っています。
自分の会社という視点だけではなく、日本や世界の文化となっている“UMAMI”という大きな意味でも後の代に繋いでいきたいと考えています。
だから、弊社に「THE UMAMI COMPANY」や「UMAMI LABO」という言葉や考え方が降りてきたのは必然だと思っています。
だからといって、奇を衒っているだけではなくて伝統的な鰹節も大事にしていきたい。
地球誕生から考えた大きな流れの上に、今自分たちがつながっているという思いを抱いて、この丸眞を進めていきたいと思っています。
3-2 母の味「味噌汁」
これは商いの話ではないのですが、やはり自然の恵みからとった出汁の味というものをきちんと次の世代に残していきたいですね。
「You are what you eat」という言葉があるように、やはり私は、食べているもので人間はつくられていると思っています。食べるということは、すごく重要だと思います。
だからこそ、からだや心が喜ぶきちんとしたものを食べていきたいですよね。
化学調味料などが出てきたのは、人類誕生でいうとすごく最近のこと。
例えばうつ病であったりとか、アトピーであったりとか、すぐ切れてしまう現代人のことだったりとか、何かしら関係があるのではないかと思っています。
少し話は逸れてしまうかもしれませんが、私が母の味は?と問われたら、やはり「味噌汁」と答えます。これは、鰹節屋に生まれた私だから、ということもあるかもしれません。
大学生時代ヨット部だった私は、長期合宿から帰ってきたときに、久しぶりに飲んだ母のお味噌汁に感動したのを覚えています。
普段は鰹節からきちんとダシを取る母の味噌汁の味に慣れてしまっていたけど、「ああ、味噌汁ってこんなにうまいんだ!」とびっくりしました。
こくがあって旨味が強くて、味噌とのバランスがよくて、自然な味がしたのです。
いわゆる化学調味料の変な甘さがなく、全然違いました。
化学調味料などが多く使われる現在。忙しいとつい頼ってしまいたくなりますし、時々は賢く使うものいいと思います。
でも、やはりきちんととった出汁は格別です。
弊社では、「ぐうたらダシ取り法」なるものも提案していて、一般消費者向けに私もよくご紹介するのですが、これは短時間できちんとした出汁が取れます。まさにぐうたらでOK(笑)!
こちらに関しては、また別のブログでご紹介できたらと思っています。
こういった方法なども活用して、本当の味というのを次の世代にちゃんと手渡していきたいです。
3-3 まとめ
今回は屋久島にあった伝説の節について、そして丸眞のルーツとの関係、“UMAMI”への思いについてお話ししてきました。「丸眞」というひとつの鰹節屋で考えても、「鰹節」という食文化で考えても、“UMAMI”という食文化で考えても、全部それぞれにつながっていることを考えさせられます。
一つひとつが丁寧にバトンをつないで今がある。私も丸眞も、お客様の思いをつなぎ、食文化をつなぎ、後世に確かなものを引き継いでいきたいと考えています。
また日々、さまざまな美味しさを創り出している食のプロフェッショナルのみなさまと一緒に“UMAMI”の道を追求していけたらこんなに幸せなことはありません。
★ 主要参考資料&URL
『鰹節考』(筑摩叢書)山本高一著
『そば・うどん第7号』(柴田書店)昭和55年発行